映画「K2 白き氷河の果てに」(97年6月6日 横浜市教育文化ホール) 昨年まで私と同じ事業場にいらしたHさんにおさそいを受け、神奈川ヒマラヤ 登山隊主催の映画鑑賞会に行って来ました。日本K2登山隊による登頂のドキュ メンタリー映画、登頂20周年記念行事の一つです。そして今夏、広島三郎隊長 率いる同登山隊が、K2と同じバルトロ氷河上流の「スキルブルム峰(7360m)」 の遠征(第二登,約50日間)へ出かけるとのこと。映画の後、隊員の方々の紹 介もありました。広島さんは上記K2登山隊員でもあり、92年には隊長として スパンティーク峰全員登頂を成功させました。Hさんは、元職場での山仲間の 永澤氏(退職して登山隊に加わり今回の副隊長でもある)を通じて隊の方々とお 知り合いだそうです。 20年前は、登山装備の性能も今よりずいぶん劣っていて(ゴアテックスなぞは 無かった)、遠征隊の規模は今とは比べものにならない大きさ。アタック隊も6 分割ぐらいのローテーションが組まれ、ルート工作や荷揚げに多大な貢献をして きたにもかかわらず、天候と日程の関係で登頂できるかは運次第。新貝隊長はベ ースキャンプにこもり、作戦を練って指令を飛ばします。アタック隊員は指示通 り動くいわば兵隊で、登山活動は軍隊を思わせます。 最初に頂上に立ったアタック隊のリーダーが重廣さん。次のアタック隊にはパキ スタン人初登頂者となったアシュラスアマン氏が含まれた。一方ナジール氏らは、 第一次アタックに失敗し、その後再度アタックを目指すが天候に見放され登頂で きず。ナジール隊だった若手、小野寺氏と寺西氏が最後に残念がって、K2を見 て泣き崩れるシーンが目に残っています。二人はその後、別の遠征で遭難し亡く なられたとのこと。映画の後、広島さんはこのシーンを見ると胸が一杯になりま すと語られました。 これだけ大規模の登山隊というのは、当時だからこそ意味があったのであり、現 在はもっと小規模に軽く登ってしまう時代を迎えているといえます。が、私にと っては、登山に対する考え方を養う上でも、また、単にK2頂上に至る道のりは どんなものなのか見たかったという意味でも、映画は有意義でした。 スキルブルム7360mの悲報(97年8月) 第19号にて神奈川ヒマラヤ登山隊のスキルブルム記念登山隊のことに 触れましたが、まさか...の遭難事故が起きてしまいました。亡くなられた広 島隊長,永澤副隊長の両氏と直接お会いしたことはありませんが、映画鑑賞会の 後にステージ上で挨拶されるのを拝見していただけに、私も大変ショックでした。 ましてや昔からの山仲間を失われたHさんのお気持ちは、はかり知れません。 今回の事故については、私は詳細の情報をまだ入手してないのではっきりしたこ とは言えません。しかし、登山隊は実力以上に無理をしていたということは決し てなかったように思えます。一昨年のヒマラヤトレッキング大量遭難にしても、 今回の事故にしても、何が起こるかわからないヒマラヤの過酷な自然を物語って います。これは、自動車事故などとと同じく、どんなに気をつけても100%避ける ことは不可能なものだと言えますが、事故に遭う確率は自動車事故に比べてヒマ ラヤの方が段違いに高いことは言うまでもありません。 この危険性をふまえた上で、それでもヒマラヤ(トレッキング含めて)やバリエ ーション登山などに行くかどうかは、各自が決めることです。行くと決めた場合、 完全ではないにしても危険性は常に最低値にもっていくべく、グループ全員が安 全に対して最大限の努力を払い続け、常により安全な登山技術を追い求めて行く ことが求められます。以上当たり前の話といえばそうですが、肝に銘じて山行と トレーニングを続けていきたいと思います。